ある番組で、完全食だけで生活している人がインタビューされていた。
その人曰く、
「食のアプトプットは糞」
だから食に時間をかけるのは人生において無駄なんだと。
これに対して、
「人生のアウトプットは死」
とコメントしている人がいた。
なるほどな、と思った。
私の人生はこの言葉通りかもしれない。
人によって、考え方によってはそんなことないんだろうと思う。
例えば、人は生きる中で仕事だったり趣味だったり、何かを作りこの世に出していく。
これも間違いなくいわゆるアウトプット。
だから人生のアウトプットとは、人の何かの活動によって生み出されたもの一つ一つすべてだ。
そんな考え方もできそう。
でも私は、少なくとも私の人生においては「人生のアウトプットは死」だと思う。
生きてきて30年が経った。
勉強もして仕事も趣味っぽい事もそれなりにしてきた。と思う。
でも、この30年ちょっとの中に「私」という記録は存在しない。
今まで私がしてきた事は、私じゃなきゃできないことはない。
すごい功績とか、後世に残るようなものはつくり出してない。
それなりに好きなものとかはあっても、熱中して夢中になって私を私の人生を捧げるほど何かやったこともない。
誰かの記憶にも私という記録は残っていないだろうし、
私自身の人生も、青っぽい言い方になるけど生きた記録が薄いというか、
こんな人生だったな…と振り返れるほどの記録がない。
人生を一言で表すと、とか、
人生を色で表すと、とか、
人生になにか濃い記録があると答えられそうな質問だけど、
私にはこの記録がない。
今のところ、これから先の人生でも濃い記録が生まれる予感はまだない。
じゃあ私が生きた結果としてこの世に排出される記録は、出生と死だけなんじゃないだろうか。
私が何をしたところで、人生のアウトプットは死。
言葉にするとネガティブな空気になってしまうけど、私はこの言葉で心が少し軽くなった。
今の私がどんなに成功してもどんなに失敗しても、死まで過程なんて記録に残らない。
最終的なアウトプットが死であることも変わらない。
どんな事をしてても還りつく結果は変わらない。
生きることへのプレッシャーが少しだけ軽くなった。
今回感じたことを言葉で整理したくて書き起こしたけど、上手く言語化できなくてもどかしい。
もっと鮮明に自分が感じたことを言葉に移せたら良いのに。
残らない私の人生過程の記録は本人の私さえもすぐに忘れてしまうほど薄いから、
言葉にして私が生きている間だけでも思い出せるように日記として残したいと思った。
飽き性な私が、少しでも長くこの記録を残せますように。